神は愛です:愛をどういう風に定義しますか?
“神は愛です”、しかし愛をどのように定義しますか? アメリカン・ハリテージ・ディクショナリーによる愛の定義は“家族または個人的関係の熱情的感情の結びつきに基づく”。多くの場合 “熱情的感情”とは相手に対する肉体的な誘引のことです。他の人達を愛している、または私達が他の人達に愛していると言う、又はその人達に惹かれていればその人達は自分を良い気分にしてくれます。辞書で言っている愛の意味の場合いは、愛には条件がつくことを示しています;言い換えれば、自分が誰かを愛すのは、その前に相手が自分の条件を満足させてくれれば...。何度あなたは次ぎのように思ったり聞いたりしましたか? “愛している、あなたはとても可愛いね”“愛している、だってあなたは良く私の面倒を見てくれるから;”“あいしている、あなたと一緒にいると楽しいから”?
愛は条件付きだけではありません、愛は奇跡でもあるのです。愛が感情や感覚だけであるなら次の瞬間にまた変わってしまうものです。現在の社会において離婚が非常に増えているのは夫と妻の間がお互いに“愛せなくなった”と言う建前からです。彼等の結婚生活が困難な問題を通っているかも知れません、相手に対しての“愛の気持ち”がなくなっているかも知れません、そして彼等はもうこれで終わりだと言います。どうやら、結婚の誓いにした“死に至るまで”の意味は肉体的な死に至るまでではなく、結婚相手に対しての愛が冷めた時のようです。
“無条件”の愛を本当に理解している人がいるのでしょうか? 神の愛の助けがなくても、人生において両親が自分の子供に対して無条件に近い愛を注ぐことはできます。自分の子供であるなら良い時も悪い時も、続けて愛し、子供が自分の期待にそわないとしてもそれでも愛することを止めたりはしません。自分の子供であるならばたとえ愛されそうにないと思っても、愛する方を選ぶことでしょう;子供を愛していると“感じ”なくても親は自分の子供を続けて愛します。私達に対する神の愛がこれと似ています、しかし神の超越した愛の核心を人間の愛の定義で理解することはできません。
神は愛です:神は愛をどのように定義しているか
聖書では“神は愛です”と言っています(1ヨハネ1:8)。しかしそれが事実かどうか、どこから又どのようにして理解したら良いのでしょうか? 聖書の中には非常に多くの言葉で、神の愛が定義付けられています。その中でも良く知られている言葉は、ヨハネ3:16、“神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”神は一つの方法として、愛は与えるものとして示しています。ですが、神は一体何を下さったのでしょう(または“誰”を下さったのですかと言うべきでしょうか)綺麗な包装紙に包まれた贈り物;神は御子を私達の犠牲として下さった、それは私達が御子を信じることで、神から永遠に分離されることのないためなのです。本当に驚くばかりの愛です、と言うのは私達は以前には自分自身が罪を犯して神から分離される方を選んだからです、しかし神は私達との分離を、御自身の深い愛の犠牲によって修復して下さいました、ですから私達はただ神の贈り物を受け取れば良いのです。
他にも神の愛について書かれた素晴らしい聖句がローマ人5:8にあります、“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。”この節とヨハネ3:16、の中で神の愛が条件付でないことがお分かりでしょうか。神は次のようには言っていませんね…“行いを正したら、あなたを愛しましょう。 ”または、“もしあなたが私を愛すると約束するなら、私の子を犠牲にするよ。”実際には、ローマ人5:8で、それと全く反対のことを言っています。神は神の愛が無償であることを私たちに分かってほしく、神の愛を経験する前に行いを正すことや、約束をする必要はないと言っています。私達に対する神の愛は何時も存在しているのです、ですから私達が神の愛が必要であると気づくずっと前からその寛容と犠牲とを完成して下さいました。
神は愛です:それは無条件の愛
神は愛です、そして神の愛は人間の愛とはずい分と違っています。神の愛は無条件であり、また感情や感覚に基づくものではありません。私達が可愛らしいから、または、私達が神の気分を良くしたから、でもありません;“神は愛”だから私達を愛するのです、私達は神と愛の関係を持つようにと創造されたのです、そして神は御子を犠牲にして(自ら進んでわたしたちの罪のために死なれた)それは私達との愛の関係を回復するためでした。